開国の父 老中・松平忠固

11月2019

【172】ロシア、サハリンが島であることを確認≫

プチャーチンとは別のロシア一団

ペリー同様かつ同時期、日本と開国交渉をしたプチャーチン。

そのプチャーチンとは全く別行動で、日本に来た一派がいます。

それが北方シベリアからアムール川を伝ってサハリンを調査していた一団です。

東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフを中心に、ゲンナジー・ネヴェリスコイが実際に樺太周辺を探検しました。

ネヴェリスコイは1849年、樺太が島であること(船が航行可能であること)を確認します。

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【171】ロシア、樺太の領有を主張≫

プチャーチンが樺太領有を主張

始めはプチャーチンは和親交渉しかしませんでした。

ロシア皇帝の国書には和親条約に関することしか触れられていなかったからです。

しかし、コルサコフ大尉から樺太のクシュンコタン占領の報を聞き、「樺太のロシア領有」を主張するのです。

その一か月前には松前藩からその情報を得ていたとはいえ、幕府が困難な状況に追い込まれているのが伺えます。

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【170】ロシア、幕府直轄地を占領≫

日露史

ペリーと同時期に来航したプチャーチンによって、現代に連なるロシアとの歴史が始まります。

ヨーロッパに位置するロシアが日本と接触するまでの歴史を振り返ります。

・1636年/イヴァン・モスクヴィチがロシア人として初めてシベリアを横断、太平洋側に到達。

・1700年/幕命により松前藩が『十州島(北海道)、唐太、千島列島、勘察加(カムチャツカ)』からなる蝦夷全図と松前島郷帳を作成

・1701年/日本人漂流民・伝兵衛らとウラジミール・アトラソフが出会い、日本とロシアが初めて接触

・1706年/カムチャッカがロシアによって占領

・1739年/ヴィトゥス・ベーリング探検隊が房総などに来航、日本は北方に『ロシア』という国があることを認識

・1741年/ベーリングがユーラシアと北米との間の海峡(ベーリング海峡)にたどり着きく

・1744年/ロシアへの対応の為、蝦夷地を松前藩から幕府直轄地とする(1821年まで)

・1806年/レザノフ事件(樺太・択捉島の幕府直轄地をロシアが攻撃)

・1809年/間宮林蔵、樺太が半島でなく島であることを確認

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