開国の父 老中・松平忠固

ロシア/プチャーチン

【128】露寇、ロシアからの武力攻撃で≫

『異国船打払令』から『薪水給与令』へ

アヘン戦争を受けて幕府は『薪水給与令』を発します。

外国船に対して「薪(燃料)水(食料)は与える』という穏便政策です。

その前は『異国船打払令』という過激政策だった訳ですが、実は『薪水給与令』が出たのは初めてではありません。

外国船に対する法律ができたのは、1792年にロシアのアダム・ラスクマンが根室に来航し、通商を要求したのがきっかけです。

当然のことながら幕府は拒否して帰したのですが、その後すぐ1804年にニコライ・レザノフが来航します。

頻発してきた外国船に対し穏便に対応するため1806年にできた法律こそ、第1回目の『薪水給与令』だったのです。

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【169】ペリーと同時にロシアも来航≫

ロシアのプチャーチン、来航

ペリーが離日して、わずか一か月余り、ロシアのプチャーチンが来航します。

現在に続く世界情勢に、まさにここから日本は組み込まれるわけなので、私はペリー来航についてはぜひプチャーチン来航と合わせて開国史を学んでほしいと思っています。

しかも、アメリカは『ロシアが日本にプチャーチンを派遣する』という情報を得て、それに対抗する為にペリーを派遣させてロシアに先んじることに成功したわけですから。

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【170】ロシア、幕府直轄地を占領≫

日露史

ペリーと同時期に来航したプチャーチンによって、現代に連なるロシアとの歴史が始まります。

ヨーロッパに位置するロシアが日本と接触するまでの歴史を振り返ります。

・1636年/イヴァン・モスクヴィチがロシア人として初めてシベリアを横断、太平洋側に到達。

・1700年/幕命により松前藩が『十州島(北海道)、唐太、千島列島、勘察加(カムチャツカ)』からなる蝦夷全図と松前島郷帳を作成

・1701年/日本人漂流民・伝兵衛らとウラジミール・アトラソフが出会い、日本とロシアが初めて接触

・1706年/カムチャッカがロシアによって占領

・1739年/ヴィトゥス・ベーリング探検隊が房総などに来航、日本は北方に『ロシア』という国があることを認識

・1741年/ベーリングがユーラシアと北米との間の海峡(ベーリング海峡)にたどり着きく

・1744年/ロシアへの対応の為、蝦夷地を松前藩から幕府直轄地とする(1821年まで)

・1806年/レザノフ事件(樺太・択捉島の幕府直轄地をロシアが攻撃)

・1809年/間宮林蔵、樺太が半島でなく島であることを確認

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【171】ロシア、樺太の領有を主張≫

プチャーチンが樺太領有を主張

始めはプチャーチンは和親交渉しかしませんでした。

ロシア皇帝の国書には和親条約に関することしか触れられていなかったからです。

しかし、コルサコフ大尉から樺太のクシュンコタン占領の報を聞き、「樺太のロシア領有」を主張するのです。

その一か月前には松前藩からその情報を得ていたとはいえ、幕府が困難な状況に追い込まれているのが伺えます。

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【172】ロシア、サハリンが島であることを確認≫

プチャーチンとは別のロシア一団

ペリー同様かつ同時期、日本と開国交渉をしたプチャーチン。

そのプチャーチンとは全く別行動で、日本に来た一派がいます。

それが北方シベリアからアムール川を伝ってサハリンを調査していた一団です。

東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフを中心に、ゲンナジー・ネヴェリスコイが実際に樺太周辺を探検しました。

ネヴェリスコイは1849年、樺太が島であること(船が航行可能であること)を確認します。

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【172】プチャーチンの動きの裏には≫

プチャーチンの慌ただしい動きの理由とは

1953年10月18日に樺太領有を主張したロシアのプチャーチン。

10月23日には一旦長崎を離れ、上海に戻ります。

そして、12月5日に再び長崎に来航、川路聖謨らと国境画定・和親交渉を再開。

翌1月6日交渉打ち切り、8日には慌ただしく長崎を出港。

14日にはペリーが再来航-、というまさに怒涛の展開がなされます。

この流れの裏では現代も続く大きな世界の流れがあります。

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