開国の父 老中・松平忠固

井伊直弼

【108】忠固が井伊直弼を大老にした≫

4月22日、忠固が大老要請

忠固が井伊直弼を大老にした -

このことが、水戸にある常盤神社の資料に記述されています。

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【141】【一橋派 vs 南紀派】ではなく【政権 vs 政権交代派】≫

一橋派 vs 南紀派 という構図ではない

日米両条約締結の時期の政治体制は、今でも下記のように語られます。

一橋派 vs 南紀派

〇一橋派

阿部正弘、水戸徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬、尾張徳川家、宇和島・土佐藩主など

〇南紀派

井伊直弼、松平忠固、紀州徳川家家老、溜間大名、譜代大名

しかし、このサイトは条約締結時にはそのような構図はなかったと考えています。

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【142】Wikipediaに【安政の大獄】がない≫

【批評】でなく【実績】を見る

このサイトは、【批評】でなく【実績】で判断したいと考えています。

それは、忠固自体が悪口とも言える個人攻撃の批評によって、正当な評価が得られていないからです。

考え方が違うのは、大いに結構です。

忠固と正反対の行動を取った徳川斉昭も、個人的に嫌いではないのは、斉昭も日本の将来を思っての主張・行動だったからです。

しなしながら、井伊直弼はどうでしょう。

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【148】井伊直弼の性格≫

井伊直弼の性格を象徴する『忍一件』

井伊直弼を象徴する事件『忍一件』をご紹介します。

彦根藩・井伊家は御三家を除く全国大名の筆頭という家柄で最高位7家は『溜間』という家格にあたります。

その溜間の中でも上位3家(彦根・会津・高松)は常溜と言われ、下位4家(姫路・松山・桑名・忍)は飛溜と言われます。

事件は嘉永三(1950)年、直弼が彦根藩世子(世継ぎ)となって4年目にそれは起きました。

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【152】直弼に関する同一史料の記述が東大と博物館で違う≫

直弼に関する史料は信ぴょう性が低い

忠固が老中となって2年後、井伊直弼が36歳で彦根藩主となり政治舞台に登場します。

直弼は31歳で初めて江戸城に上府し人脈がない、そして非常に後ろ向きな性格、ということはこれまで述べました。

ここでは直弼にまつわる史料の信ぴょう性について述べます。

このサイトの阿部正弘評も福山藩家臣が残した史料を基にしたものも多く、関係者が自分の殿様を贔屓目に書いてしまうのは前提としなければなりませんが、直弼関連についてはそれを勘案しても信ぴょう性に甚だ疑問があります。

 

 

 

東大と彦根城博物館の同じ写本の記述が違う

直弼の側役・宇津木六之丞が直弼没後に中心となって編纂した「公用方秘録」には写本が幾つかあります。

東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」にある「公用方秘録」の記述分には井伊直弼いわく「最後は、自分1人で責任を取る」と言ったと書いてある。

しかし、彦根城博物館の同じ史料には「諸大名の意見聴取の上の決定であれば良いが、さもなければ世間でかれこれ異論を唱え、天皇の逆鱗にも触れる」と宇津木が言うと、井伊直弼は「それに気付かなかったのは無念だ」と言った、と書いてあるといいます。

この彦根城博物館の史料を良く知る歴史学者は、明治政府に提出された、すなわち東京大学史料編纂所にある史料は、この部分が改竄され提出されたものらしい、というのです。

 

詳細はこちらのサイトをご覧いただくとして、掃部山の銅像の話をはじめ、基本的に直弼に関する史料は信用できません。

 

 

 

 

【168】ペリー来航時の井伊直弼≫

ペリー来航時の直弼は

ペリー来航時の井伊直弼の状況を確認。

彦根藩主となって2年半。

忍一件 のような陰湿で後ろ向きでしかない揚げ足取りで、藩内の政治は掌握したことでしょう。

しかしこの時点で、10代の頃から政府内で活躍してきた阿部や忠固と違い、国政・内閣に所属したことはありません。

ペリー来航時も江戸ではなく彦根にいて、ペリーが去って一か月後に江戸に向かうことになります。

 

 

 

 

 

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