開国の父 老中・松平忠固

【152】直弼に関する同一史料の記述が東大と博物館で違う≫

直弼に関する史料は信ぴょう性が低い

忠固が老中となって2年後、井伊直弼が36歳で彦根藩主となり政治舞台に登場します。

直弼は31歳で初めて江戸城に上府し人脈がない、そして非常に後ろ向きな性格、ということはこれまで述べました。

ここでは直弼にまつわる史料の信ぴょう性について述べます。

このサイトの阿部正弘評も福山藩家臣が残した史料を基にしたものも多く、関係者が自分の殿様を贔屓目に書いてしまうのは前提としなければなりませんが、直弼関連についてはそれを勘案しても信ぴょう性に甚だ疑問があります。

 

 

 

東大と彦根城博物館の同じ写本の記述が違う

直弼の側役・宇津木六之丞が直弼没後に中心となって編纂した「公用方秘録」には写本が幾つかあります。

東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」にある「公用方秘録」の記述分には井伊直弼いわく「最後は、自分1人で責任を取る」と言ったと書いてある。

しかし、彦根城博物館の同じ史料には「諸大名の意見聴取の上の決定であれば良いが、さもなければ世間でかれこれ異論を唱え、天皇の逆鱗にも触れる」と宇津木が言うと、井伊直弼は「それに気付かなかったのは無念だ」と言った、と書いてあるといいます。

この彦根城博物館の史料を良く知る歴史学者は、明治政府に提出された、すなわち東京大学史料編纂所にある史料は、この部分が改竄され提出されたものらしい、というのです。

 

詳細はこちらのサイトをご覧いただくとして、掃部山の銅像の話をはじめ、基本的に直弼に関する史料は信用できません。

 

 

 

 

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