開国の父 老中・松平忠固

阿部正弘

【115】盟友・阿部正弘≫

阿部正弘が藩主に

天保7年(1836年)、阿部正弘が18歳で福山藩主となります。

この6歳年下の阿部正弘と忠固がペリー来航時の政権の中枢として活躍することになります。

ただ、「阿部と忠固が懇意で一緒になって政局に当たった」とする資料は多くありません。

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【133】阿部正弘、異例の昇進≫

忠固失脚の年に大きな政変

忠固が寺社奉行を罷免され、鳥居耀蔵が勘定奉行へ出世し、政争に「勝負あった」と思われたこの年の秋、大きな政変が起きます。

最高責任者である老中首座・水野忠邦が解任されるのです。

しかし、それは本格的な政権交代ではなく、低レベルの内ゲバ・足の引っ張り合いでの交代劇でした。

そんな水野忠邦解任と同時に実行されたのが阿部正弘の老中就任です。

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【134】水野忠邦、政変により老中を解任≫

教科書で習う『天保の改革』であるが

『天保の改革』は『享保の改革』『寛政の改革』と共に江戸三大改革と学校では習います。

享保の徳川吉宗、寛政の松平定信と合わせて、水野忠邦も「それは偉人だ」という印象を持っていました。

しかし、天保の改革は結果としては失敗です。

13代家斉時代の放漫政治を一掃したことは評価されますが、江戸と大阪にある諸大名の領地を幕府に召し上げさせる『上知令』が失敗し、同僚の老中・土井利位に追い落とされます。

最後は本人不在のまま土井に上知令を撤回され、その5日後に老中を罷免されることとなるのです。

水野忠邦

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【135】水野忠邦の復権、裏切り者への報復≫

政変は終わらず

忠固が失脚した後、水野忠邦が失脚する訳ですが、この政変はまだまだ終わりません。

水野を追い落として老中首座となった土井利位ですが実力が伴わなかったのでしょう、政権運営ができずわずか半年余りで水野忠邦が老中首座に復帰することになります。

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【136】誰が忠固を復活させたのか?≫

忠固を寺社奉行再任に導いたのは誰か?

忠固の寺社奉行罷免から1年余りで、老中首座・水野忠邦が失脚・復権・再失脚という政変があった訳ですが、水野が再失脚する2カ月前に、忠固が寺社奉行に再任されます。

致命的な罷免、政治生命を絶たれたと思われた忠固を、いったい誰が復活させたのでしょう?

水野忠邦の置き土産?、そんなことはないでしょう。

それは、水野忠邦が辞職した同日に老中首座となった阿部正弘、その人だとしか考えられません。

その後の二人の歩みから見て、それは間違いないと思います。

 

 

 

盟友の証拠

松平忠固と阿部正弘、この二人の関係はこれまで確固たる資料がなく、年表の流れから推察するしかありませんでした。

しかし、二人が盟友であった証拠がやっと見つかりました!

儒学者の尾藤水竹が水戸藩士に出した書状です。

「閣老後任いよいよ大坂(忠固。大坂城代)に定まり召状を発せられたり。この人は勢州(阿部正弘。伊勢守)無二の懇意にもあり、すごぶる長者の聞えあり」

忠固が大坂城代から老中になる時の書状ですが、「二人が無二の懇意である」証拠がやっと一つありました。

それに、「すごぶる長者」という言葉も気になります。まさか「穏やかという意味???」

忠固の画と唄「時わかぬみどりの松にいろはえてゆかりに寄する春の藤浪」

 

 

 

 

【137】阿部正弘、『炎の剣』と『氷の剣』を入手する≫

阿部正弘、忠固という『剣』を手に入れる

阿部正弘が弱冠26歳で老中首座に就任します。

着々と政権基盤を固めると同時に、ここで2つの強力な武器を手に入れます。

1つは、忠固。

竹馬の盟友であり、その力は迫りくる西洋に対して現実的に取り入れようという「判断」と「行動力」。

一度政治生命を絶たれた忠固を引き上げることで、義理堅い忠固は決して阿部を裏切ることがないはずです。

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【138】阿部は斉昭の『実績』を評価≫

阿部と斉昭はどうして近しいか

阿部正弘を支える剣の一人、御三家・水戸藩主・徳川斉昭。

どうして阿部と斉昭は近しい間柄となったのでしょうか。

元々は斉昭が行った水戸藩の藩政改革があります。

水野忠邦の天保の改革に先駆ける形で、藩内の農政や軍事、教育、人材登用などを改革し、実績を収めました。

阿部正弘という人は、人材をその人物の「口先」ではなく「実績」で評価します。

水戸藩内で、まさに日本の目指すべき改革を実現させた斉昭を高く評価したからなのは間違いありません。

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【157】ペリーの名や艦名、目的、時期さえ知っていた≫

クルティウスの書簡

その書簡は長崎と天文方、二つの訳文がなされました。(日蘭学会誌第13巻2号)

北アメリカ合衆国政府が日本に向けて同国との貿易関係を結ぶため、合衆国大統領の日本皇帝宛ての書簡一通を携え、かつ数人の日本人漂流民を連れた一使節が派遣させるとのことであり、また、北アメリカ人の為に、日本の一つの適切な港に石炭を貯蔵できるための許可を求めるとのことですが、その港を彼らは、彼らがカリフォルニアとシナとの間に計画している蒸気船の航行にとって必要としているとのことです。

予想される軍艦名は、軍用蒸気フリゲート艦サスケハンナ、コルベット艦サラトガ・プリマス他二艦が現在シナ海域にあり、最近受け取った幾つかの報告によれば、同海域には蒸気艦ミシシッピー、プリンストン、ブリック艦ペリー、運搬船サプライがいて、遠征指揮官は准将オーリックから准将ペリーに代わったとのことです。

第一次・第二次ペリー来航とほぼ合致しています。

当時のサンフランシスコ、おびただしいマストが見えます

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【167】徳川斉昭が入閣、忠固は反対≫

徳川斉昭、入閣

ペリーが離日して約一か月後、御三家水戸家の徳川斉昭が入閣します。

これは政権にとって劇薬、諸刃の剣でした。

なぜなら、『御三家が内閣に入れば政治的権力を握ることになる、それは将軍家と御三家水戸家との間に権力闘争を誘発することになる』。

それは、家康が絶対に避けるために厳命した祖法であり、鎖国(そもそもこの当時鎖国という言葉も意識もない)よりも大事にすべき幕府の祖法だったからです。

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【173】幕府史上、圧倒的な改革≫

怒涛の改革

ペリー離日から10日後、6/22将軍家慶崩御。

喪が明けるまでは控えていたのでしょう、8月に入ると堰を切ったように怒涛の変革を開始します。

8/1   ペリー国書を一般市民にまで公開

8/6   高島秋帆、出獄

8/10  水戸藩に西洋船『旭日丸』の建造を許可

8/26  台場造営を命令

9/8   浦賀奉行に西洋船『鳳凰丸』建造を命令

9/15  大船建造解禁

10/8  永井尚志を目付に登用、岩瀬忠震を後任の徒頭に

10/18 斉昭、大筒74門を献上

11/6  斉彬、15隻の艦隊製造を許可される

11/7  万次郎、旗本格で登用

11/23 将軍家定、就任

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