開国の父 老中・松平忠固

【138】阿部は斉昭の『実績』を評価≫

阿部と斉昭はどうして近しいか

阿部正弘を支える剣の一人、御三家・水戸藩主・徳川斉昭。

どうして阿部と斉昭は近しい間柄となったのでしょうか。

元々は斉昭が行った水戸藩の藩政改革があります。

水野忠邦の天保の改革に先駆ける形で、藩内の農政や軍事、教育、人材登用などを改革し、実績を収めました。

阿部正弘という人は、人材をその人物の「口先」ではなく「実績」で評価します。

水戸藩内で、まさに日本の目指すべき改革を実現させた斉昭を高く評価したからなのは間違いありません。

 

 

 

阿部が斉昭復権に尽力

ですが、改革者には当然ながら敵も多く、家老をはじめとする門閥側に逆襲されて『謀反の疑いあり』とのことで藩主を辞任させられ、謹慎に追い込まれます。

その謹慎が、阿部正弘が老中首座になる3か月前に解かれます。

ちなみに忠固の寺社奉行復帰は2か月前ですから、もし厄介ごとになっても退任予定の水野忠邦首座に責任をかぶせてしまえばいい、との思惑もあったではと思えます。

それほど阿部正弘は周到なのです。

そもそも、藩内の争いに中央政府が口出すこと自体とてもリスクの高いことなのですから。

 

 

 

反発の大きい改革『人材登用』を実現

斉昭が実現させた実績のうち最も革新的で、それ故反発も絶大だったのが人材登用ではないでしょうか。

家柄に関係なく優れた者を登用する、というものですが、門閥や家格によって役や位が決まる時代ですから、その反発は並大抵ではなく、だからこそ阿部よりも前の政権に『謀反の嫌疑』をかけられ藩主を辞任させられるのです。

維新志士達の尊王攘夷論の父・藤田東湖も斉昭が登用した人材の一人なので、いかにその後の歴史に大きく影響したか、ということでしょう。

加えて教育改革では『弘道館』という藩校を創設し、これに倣う形で阿部も福山藩『誠之館』を創設しています。

ただ斉昭はその苛烈な性格ゆえ後年、阿部を悩ませ続けるのと共に、水戸藩も終始藩内対立がひどく、維新前には人材がいなくなります。

水戸『弘道館』

 

 

 

 

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