5月2019
【141】大坂での成功≫
城代縞
大坂城代となった忠固は、入城してすぐに30年来の懸案事項だった大坂城改築に取り掛かります。
そして、その後行ったのが、難波橋の橋詰に開設した上田織物扱所の設置です。
全国一の蚕都と名高い地元上田の絹織物・上田紬を、当時経済の中心地である天下の台所・大坂で販売する販売所を設けたのです。
この織物は『御城代縞(大坂城代のしま模様の織物)』と呼ばれ評判となりました。
ただ一人、輸出を想定していた忠固
忠固が若い時から養蚕を奨励してたことは【114】で書いた通りです。
天保の大飢饉で疲弊を極めた地元産業・経済の起爆剤として、自らの中央政府での地位を以て養蚕振興の許認可を受けていた訳ですが、それが大坂でいよいよ実を結ぶのです。
その成功によりやがて江戸でも販売所が開設され、いえ、どちらかというと江戸での販売所は横浜での輸出を視野に入れての前段階としての申請だと思われます。
忠固の生糸輸出のイメージは既に大坂時代には出来上がっていたとも思われ、それはほとんどの大名が攘夷もしくは開国反対で、開国の意志を持っていた極々わずかな一人である阿部正弘さえ具体的な輸出のことまで考えていなかったことを見ると、いかに革新的で、あまりに革新的すぎるゆえ誰からも理解されず、後世の歴史家からも罵詈雑言を浴びせかけられる、という事態になっているのではないでしょうか。
【141】【一橋派 vs 南紀派】ではなく【政権 vs 政権交代派】≫
一橋派 vs 南紀派 という構図ではない
日米両条約締結の時期の政治体制は、今でも下記のように語られます。
一橋派 vs 南紀派
〇一橋派
阿部正弘、水戸徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬、尾張徳川家、宇和島・土佐藩主など
〇南紀派
井伊直弼、松平忠固、紀州徳川家家老、溜間大名、譜代大名
しかし、このサイトは条約締結時にはそのような構図はなかったと考えています。
【140】ペリー来航8年前に外国船が浦賀に公式入港した≫
アメリカ商船の浦賀入港
阿部が老中首座になったと同時に、重大な事件が起きます。
それがこの「アメリカ商船・マンハッタン号、浦賀入港」です。
ペリー来航の8年前、この時点では外国船に対して「打ち払い令」から「薪水給与令」に移行していたとはいえ、異国船が入港できるのは長崎だけのはず。
江戸湾内である浦賀への入港など根本的にあり得ない話だし、一体全体どういうことなのでしょう。
ですが、この事件を知ったら、ペリー来航も日米和親条約締結も自然な成り行きと感じる、それほど重要な意味を持つのがこの事件です。
【139】忠固、老中に向かって大坂城代へ出世≫
忠固、大坂城代となる
忠固は寺社奉行復帰から2か月余りで大坂城代へ出世します。
大坂城代は出世レースの頂点・老中の最終段階。
老中首座の阿部正弘は、明らかに忠固を自分の内閣に迎えるために、寺社奉行に復帰させ続けざまに大坂城代に出世させたと思われます。
自らは特例的な形でいきなり老中になってしまったので、忠固には大坂城代を経てという通例に則って、政敵の批判を防ぐという面もあったと思います。
忠固の大坂入城行列図
【138】阿部は斉昭の『実績』を評価≫
阿部と斉昭はどうして近しいか
阿部正弘を支える剣の一人、御三家・水戸藩主・徳川斉昭。
どうして阿部と斉昭は近しい間柄となったのでしょうか。
元々は斉昭が行った水戸藩の藩政改革があります。
水野忠邦の天保の改革に先駆ける形で、藩内の農政や軍事、教育、人材登用などを改革し、実績を収めました。
阿部正弘という人は、人材をその人物の「口先」ではなく「実績」で評価します。
水戸藩内で、まさに日本の目指すべき改革を実現させた斉昭を高く評価したからなのは間違いありません。
【137】阿部正弘、『炎の剣』と『氷の剣』を入手する≫
阿部正弘、忠固という『剣』を手に入れる
阿部正弘が弱冠26歳で老中首座に就任します。
着々と政権基盤を固めると同時に、ここで2つの強力な武器を手に入れます。
1つは、忠固。
竹馬の盟友であり、その力は迫りくる西洋に対して現実的に取り入れようという「判断」と「行動力」。
一度政治生命を絶たれた忠固を引き上げることで、義理堅い忠固は決して阿部を裏切ることがないはずです。
【136】誰が忠固を復活させたのか?≫
忠固を寺社奉行再任に導いたのは誰か?
忠固の寺社奉行罷免から1年余りで、老中首座・水野忠邦が失脚・復権・再失脚という政変があった訳ですが、水野が再失脚する2カ月前に、忠固が寺社奉行に再任されます。
致命的な罷免、政治生命を絶たれたと思われた忠固を、いったい誰が復活させたのでしょう?
水野忠邦の置き土産?、そんなことはないでしょう。
それは、水野忠邦が辞職した同日に老中首座となった阿部正弘、その人だとしか考えられません。
その後の二人の歩みから見て、それは間違いないと思います。
盟友の証拠
松平忠固と阿部正弘、この二人の関係はこれまで確固たる資料がなく、年表の流れから推察するしかありませんでした。
しかし、二人が盟友であった証拠がやっと見つかりました!
儒学者の尾藤水竹が水戸藩士に出した書状です。
「閣老後任いよいよ大坂(忠固。大坂城代)に定まり召状を発せられたり。この人は勢州(阿部正弘。伊勢守)無二の懇意にもあり、すごぶる長者の聞えあり」
忠固が大坂城代から老中になる時の書状ですが、「二人が無二の懇意である」証拠がやっと一つありました。
それに、「すごぶる長者」という言葉も気になります。まさか「穏やかという意味???」
忠固の画と唄「時わかぬみどりの松にいろはえてゆかりに寄する春の藤浪」
【135】水野忠邦の復権、裏切り者への報復≫
政変は終わらず
忠固が失脚した後、水野忠邦が失脚する訳ですが、この政変はまだまだ終わりません。
水野を追い落として老中首座となった土井利位ですが実力が伴わなかったのでしょう、政権運営ができずわずか半年余りで水野忠邦が老中首座に復帰することになります。
【134】水野忠邦、政変により老中を解任≫
教科書で習う『天保の改革』であるが
『天保の改革』は『享保の改革』『寛政の改革』と共に江戸三大改革と学校では習います。
享保の徳川吉宗、寛政の松平定信と合わせて、水野忠邦も「それは偉人だ」という印象を持っていました。
しかし、天保の改革は結果としては失敗です。
13代家斉時代の放漫政治を一掃したことは評価されますが、江戸と大阪にある諸大名の領地を幕府に召し上げさせる『上知令』が失敗し、同僚の老中・土井利位に追い落とされます。
最後は本人不在のまま土井に上知令を撤回され、その5日後に老中を罷免されることとなるのです。
水野忠邦
【133】阿部正弘、異例の昇進≫
忠固失脚の年に大きな政変
忠固が寺社奉行を罷免され、鳥居耀蔵が勘定奉行へ出世し、政争に「勝負あった」と思われたこの年の秋、大きな政変が起きます。
最高責任者である老中首座・水野忠邦が解任されるのです。
しかし、それは本格的な政権交代ではなく、低レベルの内ゲバ・足の引っ張り合いでの交代劇でした。
そんな水野忠邦解任と同時に実行されたのが阿部正弘の老中就任です。
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