開国の父 老中・松平忠固

【141】大坂での成功≫

城代縞

大坂城代となった忠固は、入城してすぐに30年来の懸案事項だった大坂城改築に取り掛かります。

そして、その後行ったのが、難波橋の橋詰に開設した上田織物扱所の設置です。

全国一の蚕都と名高い地元上田の絹織物・上田紬を、当時経済の中心地である天下の台所・大坂で販売する販売所を設けたのです。

この織物は『御城代縞(大坂城代のしま模様の織物)』と呼ばれ評判となりました。

 

 

 

ただ一人、輸出を想定していた忠固

忠固が若い時から養蚕を奨励してたことは【114】で書いた通りです。

天保の大飢饉で疲弊を極めた地元産業・経済の起爆剤として、自らの中央政府での地位を以て養蚕振興の許認可を受けていた訳ですが、それが大坂でいよいよ実を結ぶのです。

その成功によりやがて江戸でも販売所が開設され、いえ、どちらかというと江戸での販売所は横浜での輸出を視野に入れての前段階としての申請だと思われます。

忠固の生糸輸出のイメージは既に大坂時代には出来上がっていたとも思われ、それはほとんどの大名が攘夷もしくは開国反対で、開国の意志を持っていた極々わずかな一人である阿部正弘さえ具体的な輸出のことまで考えていなかったことを見ると、いかに革新的で、あまりに革新的すぎるゆえ誰からも理解されず、後世の歴史家からも罵詈雑言を浴びせかけられる、という事態になっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

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