開国の父 老中・松平忠固

【172】ロシア、サハリンが島であることを確認≫

プチャーチンとは別のロシア一団

ペリー同様かつ同時期、日本と開国交渉をしたプチャーチン。

そのプチャーチンとは全く別行動で、日本に来た一派がいます。

それが北方シベリアからアムール川を伝ってサハリンを調査していた一団です。

東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフを中心に、ゲンナジー・ネヴェリスコイが実際に樺太周辺を探検しました。

ネヴェリスコイは1849年、樺太が島であること(船が航行可能であること)を確認します。

 

 

 

間宮海峡かネヴェリスコイ海峡か

しかし、日本人は承知の通り、樺太が島であることはネヴェリスコイから遡ること40年前の1809年に、間宮林蔵が島であることを確認しています。

シーボルトがそれを世界に紹介したので、『日本辺界略図』にもあるように『間宮海峡』と呼称された訳ですが、最狭部は『ネヴェリスコイ海峡』とも呼ばれているようです。

この樺太を探検したネヴェリスコイこそ樺太占領を主張・実行した人物であり、樺太南部アニワのクシュンコタンも彼により占領され、その情報が開国交渉中だったプチャーチンにもたらされることになります。

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

開国の父 老中・松平忠固

PAGE TOP

© 開国の父 老中・松平忠固史 2024 All Rights Reserved.