開国の父 老中・松平忠固

【170】ロシア、幕府直轄地を占領≫

日露史

ペリーと同時期に来航したプチャーチンによって、現代に連なるロシアとの歴史が始まります。

ヨーロッパに位置するロシアが日本と接触するまでの歴史を振り返ります。

・1636年/イヴァン・モスクヴィチがロシア人として初めてシベリアを横断、太平洋側に到達。

・1700年/幕命により松前藩が『十州島(北海道)、唐太、千島列島、勘察加(カムチャツカ)』からなる蝦夷全図と松前島郷帳を作成

・1701年/日本人漂流民・伝兵衛らとウラジミール・アトラソフが出会い、日本とロシアが初めて接触

・1706年/カムチャッカがロシアによって占領

・1739年/ヴィトゥス・ベーリング探検隊が房総などに来航、日本は北方に『ロシア』という国があることを認識

・1741年/ベーリングがユーラシアと北米との間の海峡(ベーリング海峡)にたどり着きく

・1744年/ロシアへの対応の為、蝦夷地を松前藩から幕府直轄地とする(1821年まで)

・1806年/レザノフ事件(樺太・択捉島の幕府直轄地をロシアが攻撃)

・1809年/間宮林蔵、樺太が半島でなく島であることを確認

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【169】ペリーと同時にロシアも来航≫

ロシアのプチャーチン、来航

ペリーが離日して、わずか一か月余り、ロシアのプチャーチンが来航します。

現在に続く世界情勢に、まさにここから日本は組み込まれるわけなので、私はペリー来航についてはぜひプチャーチン来航と合わせて開国史を学んでほしいと思っています。

しかも、アメリカは『ロシアが日本にプチャーチンを派遣する』という情報を得て、それに対抗する為にペリーを派遣させてロシアに先んじることに成功したわけですから。

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【168】ペリー来航時の井伊直弼≫

ペリー来航時の直弼は

ペリー来航時の井伊直弼の状況を確認。

彦根藩主となって2年半。

忍一件 のような陰湿で後ろ向きでしかない揚げ足取りで、藩内の政治は掌握したことでしょう。

しかしこの時点で、10代の頃から政府内で活躍してきた阿部や忠固と違い、国政・内閣に所属したことはありません。

ペリー来航時も江戸ではなく彦根にいて、ペリーが去って一か月後に江戸に向かうことになります。

 

 

 

 

 

【167】徳川斉昭が入閣、忠固は反対≫

徳川斉昭、入閣

ペリーが離日して約一か月後、御三家水戸家の徳川斉昭が入閣します。

これは政権にとって劇薬、諸刃の剣でした。

なぜなら、『御三家が内閣に入れば政治的権力を握ることになる、それは将軍家と御三家水戸家との間に権力闘争を誘発することになる』。

それは、家康が絶対に避けるために厳命した祖法であり、鎖国(そもそもこの当時鎖国という言葉も意識もない)よりも大事にすべき幕府の祖法だったからです。

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【166】ペリーが去った直後に将軍死去≫

将軍・家慶死去

ペリーが日本を去ってからわずか10日後、12代将軍家慶が亡くなります。享年61歳。

家慶を語る上で外せないのが、父・家斉との関係です。

家斉は50年間も将軍職にあり、45歳で家慶に将軍を譲った後も4年後に死ぬまで政治を握り続けます。

「賄賂が公認されるほど腐敗した政治・家斉の重臣たちを一掃した」これが家慶の核心たる事業と言えるでしょう。

そして、他でも述べましたが、若干24歳の阿部正弘を老中首座に登用した「人物を見る目」は卓越したものがあると、個人的には高く評価しています。

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【165】第一次ペリー来航まとめ≫

ペリー来航トリビア

記事以外のペリー第一次来航トリビアをまとめます。

・出会いの第一声は蘭通訳:堀達之助「I can speak Dutch !」

・初対面は浦賀奉行与力:中島三郎助と堀、副官コンティと蘭通訳ポートマン

・交渉に当たった与力:香山栄座衛門をアメリカ側は浦賀奉行と認識していた

・日本側は中国語・オランダ語に堪能なのはもちろん、科学の一般原理や世界地図におけるニューヨークやワシントン・イギリス・フランス・デンマーク・その他欧州諸国の場所を知っていた

・艦内見学の際、大砲を見て「パクサンズ砲」と言い当て、蒸気機関を見ても驚きの色を見せなかった

・ペリーは「猿島=ペリー島」、「夏島=ウェブスター島」「打ち沈め線(観音崎~富津岬)=ルビコン岬」「根岸湾=ミシシッピ湾」と名付けた

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【164】最も印象的なペリーの日本評≫

滞在8日目の日記より

川を遡ると、外国人の姿を一目見ようと岸にやってきた大勢の住民に出会った。

あらゆる身振り手振りで歓迎の意を表してボートに向かってあいさつし、すすんで水やおいしい桃をくれる住民もいた。

政府船が二、三艘ついてきたが、乗り込んでいた役人たちは我々を歓迎して訪ねてきた。

そのうちに互いに友情が芽生えてきて、アメリカ人は日本人と一緒に煙草を交換し合って飲むほどになった。

我が士官たちはこの親切なもてなしのお返しに、知り合ったばかりのホスト達に拳銃を見せてやり、撃ってみせると日本人は非常に驚き、かつ喜んだ。

このように大変なごやかに交流して楽しんでいる間、日本人は非常に愛想よく、おおらかにもてなしてくれた

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【163】ペリーの知られたくない事実を知っていた日本≫

最重要機密を知っていた幕府

ペリーは国書を渡すことに成功すると、来航からわずか9日間で日本を離れます。

これは長期滞在するだけの物資がなかったからで、この事実はペリーの個人日記にだけ記されたトップシークレットであり、公式文書にもなければ当然ながら相手(日本)には秘密のことでした。

しかし、幕府はこの事実さえつかんでいたのです。

当時の日本政府はペリーに対し互角以上の交渉をしていたことが分かります。

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【162】「米国と一戦交えるべきだ」と主張する象山の真意とは≫

象山の攘夷とは

ペリー来航を知った佐久間象山は、夜通し駆けて翌朝には艦隊が見える位置までやってきます。

電話やカメラ、サングラスまでも自分で作ってしまう象山ですが、実は「アメリカと一戦交えるべきだ」と主張しているのです。

意外ですね。

ですが、その主張は水戸斉昭を始めとする9割9分を占める攘夷派の意見とは少し違います。

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【161】アメリカの沖縄政策はペリー当時から始まった≫

浦賀来航前に琉球へ

あまり知られていないかもしれませんが、ペリー艦隊は浦賀に来る前に琉球に寄っています。

1953年5月26日(嘉永6年4月21日)、那覇に入港します。

首里城訪問を拒否されたペリーは武装して進軍、入城を果たします。

下記の画像はその時のものですが、ペリー一行は料理を歓待されたものの、琉球が用意したもてなしは清国からの冊封使に対するよりも下位の料理で、暗黙に拒否の姿勢を示しました。

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