開国の父 老中・松平忠固

【131】忠固(忠優)、失脚≫

エース候補だった忠固が失脚

忠固(当時の名は忠優)は政争に敗れ、寺社奉行を罷免されます。

本来、忠固は幕府政権のエース候補だったのではないでしょうか。

なぜなら、忠固は譜代筆頭・播磨姫路藩主・酒井雅楽頭家出身です。

しかし逆に、酒井家のままでは政権内閣である老中には基本なれません。

酒井家がなるのは大老であり、基本大老は名誉職、実務を行うのは大臣である老中であり首相は老中首座なのです。

大老家出身で老中の手前まで出世してきた忠固、老中首座として長期政権を担える存在だったことが伺えます。

 

 

忠固政権、幻に終わる

忠固の政権構想はついえます。

忠固の罷免だけではないのです。

忠固の兄弟である田原藩主・三宅康直は蛮社の獄の影響で老中への登竜門・奏者番になれず、従弟である遠江横須賀藩主・西尾忠固(忠優からの改名はこの名を継いだ?)は奏者番を辞任、そして同じく従弟である本家・酒井雅楽頭家の忠学は37歳の若さで死去してしまいます。

忠固は最も正統的な流れをくむ政権として、老中首座:松平忠優(忠固)、老中:堀田正睦・真田幸貫・西尾忠固・三宅康直、大老:酒井忠学、勘定奉行:石河政平、外国奉行:井戸覚弘、下級官僚:川路聖謨・井上清直・水野忠徳、というような布陣を構想していたのかもしれません。

西洋の積極的導入を目指すこの内閣構想は完全に幻に終わりました。

 

 

 

次のエース・阿部正弘政権

ちなみに、忠固が復権(1度目の)し、老中に就任した時の老中首座は阿部正弘。

阿部正弘はまさに幕府政権のエース、7歳年下ですので幻の忠固政権の次のエースと言えましょう。

阿部政権も盤石の布陣を敷きました。

その証拠に、その時の阿部首座を含む老中5人の内、忠固以外は全員阿部正弘の親類縁者で固めていたのです。

日米和親条約調印文書、忠固は松平伊賀守

 

 

 

 

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