【003】生糸貿易の始まり≫
生糸輸出の準備
我が国が幕末に開国した直後、いかに生糸貿易が始まったかを振り返りたいと思います。
開国史の一級資料である上田の城下町商人、伊藤林之助の日記には、横浜で生糸貿易が開始された様子が克明に記されています。
当時、上田藩は城下町に集荷された生糸を上野国出身の中居屋重兵衛を通じて外国商館に販売しようとしていました。
安政6年2月29日、伊藤は上田町を出立し3月4日江戸に到着します。
その日の内に茅町(現・東京都台東区)にあった上田藩の中屋敷に入り、藩の重役と面会、5日には藩邸に置かれた勘定所に出頭して横浜での貿易について相談、4月7日には公儀の江戸町奉行に願書を提出します。
伊藤林之助と中居屋重兵衛
願書によれば、中居屋は横浜に千二百坪に及ぶ敷地の店を建築し、この店で上田藩のほか会津藩と紀州藩の産物を輸出することになっていました。
4月25日に建物図面を外国奉行に提出、5月1日より建築開始。
伊藤はその日に上田藩邸を出て一旦上田町に戻り、7日には上田町の産物会所で上田藩役人と会合、25日に再度江戸の上田藩中屋敷に出頭し、生糸出荷体制が整います。
日米修好通商条約に基づいて横浜が開港したのは6月2日。
伊藤が横浜に到着したのは6月16日、そして19日に中居屋が開店します。
誰によって為されたのか
中居屋が開国後初の生糸取引をした者ではない(指示によりわざと遅れて開店)ものの、7月23、24日の2日間には1万斤という膨大な生糸を販売し、これはこの年の全輸出量23万斤の4%にも及びます。
三井家の資料にも中居屋が取り扱った生糸の量は、全輸出量の5割を超えると記されています。
では、この一連の流れは誰によって為されたのでしょう。
中居屋重兵衛や伊藤林之助の行動力でしょうか。それは100%ありません。
現代とは違い、お上の許しがなければ何もできない時代だからです。
上田藩内で生糸集荷出荷体制の構築を許可した人物、そして横浜で異国に対しそれを輸出することを許可した中央政府要人、それを可能にする唯一の人物は上田藩主であり、日米修好通商条約締結を主導した老中・松平忠固、その人しか存在し得ません。
生糸貿易を始めたのは上田
松平忠固は、条約締結時には将軍・家定の厚い信任から幕府で一番の権勢を誇っていたと思われます。
しかし条約締結後わずか4日後に失脚させられ、10日後には将軍・家定が死去、翌々月に忠固が死去すると、その2か月後には中居屋が廃業に追い込まれるのは歴史の通りです。
歴史は見る側によって変わります。
ですが、我が国経済に計り知れない貢献をした生糸貿易を始めたのはまさに上田だという事は、明治維新から160年を迎える現在、今一度目を向けたい先人の功績であると思う次第です。
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