開国の父 老中・松平忠固

【150】忠固の左腕・井戸覚弘≫

長崎奉行・井戸覚弘

忠固の右腕が勘定奉行・石河政平だとすれば、左腕は長崎奉行・井戸覚弘』と言えます。

井戸覚弘は忠固が大坂城代へ昇進した同じ年に、目付から長崎奉行に昇進します。

そして忠固が老中となって翌年に起きた事件が『プレブル号事件』であり、その対応をしたのが井戸です。

これは、ジェームス・グリン中佐を艦長とする米国戦艦プレブルが長崎に来航、米国人遭難者13名と日本で初めて英語を教えたラナルド・マクドナルドを引き取った、という事件です。

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【149】『蚕都・日本一』は忠固の手腕≫

『蚕都日本一』は忠固の手腕

忠固の領地、長野県上田は養蚕の産地です。

忠固が領主であった天保年間(1830-1843)には、冥加金(領主に納める税金)200両を3年間納入し『本場』の地位を獲得、名実ともに日本一の生産地となっています。

禁絹令(田畑での桑の栽植を禁ずる法律)の敷かれる中で、河原や山腹に栽植することで桑園開発を行ったことを踏まえると、「日本一」の称号はまさに忠固の手腕と考えられるのではないでしょうか。

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【148】井伊直弼の性格≫

井伊直弼の性格を象徴する『忍一件』

井伊直弼を象徴する事件『忍一件』をご紹介します。

彦根藩・井伊家は御三家を除く全国大名の筆頭という家柄で最高位7家は『溜間』という家格にあたります。

その溜間の中でも上位3家(彦根・会津・高松)は常溜と言われ、下位4家(姫路・松山・桑名・忍)は飛溜と言われます。

事件は嘉永三(1950)年、直弼が彦根藩世子(世継ぎ)となって4年目にそれは起きました。

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【147】忠固(忠優)、ついに老中に≫

忠固、遂に老中に

弘化から嘉永元年(1848)となり、忠固(忠優)がついに老中となります。

その時の閣僚・老中の布陣は以下の通り。

阿部正弘 29(1843 – 1857)
牧野忠雅 49(1843 – 1857)阿部と親戚、阿部の守役的存在。
戸田忠温 44(1845 – 1851)阿部と親戚(阿部の妹が妻)51年に死去、後に久世
松平乗全 53(1845 – 1855、1858 – 1860)阿部と親戚(父の妻が正弘の叔母)、忠優の守役的存在。
松平忠優 36(1848 – 1855、1857 – 1858)

忠固以外は阿部の親戚、完全なる阿部正弘内閣の誕生です。

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【146】一橋慶喜、誕生≫

斉昭7男が一橋家継承、慶喜に

弘化3年(1847年)9月1日、斉昭の7男・七郎麿が一橋家を相続します

一橋慶喜、最後の将軍・徳川慶喜です。10歳。

これも阿部正弘によって計画され、滞りなく実行されました。

忠固・斉昭・斉彬の3本の矢に加え、将来の将軍さえもメイクするのですから、なんという人でしょうか。

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【145】琉球・フランス条約で開国は始まった≫

ペリー来航7年前に開国は始まった

開国はペリーが来て始まったのではない。

その7年前の弘化3年(1846)琉球とフランス間の通商条約締結で始まったのだ -

という説があります。

この年、フランス海軍司令官セシーユ率いる軍艦クレオパトル・ヴィクトリューズ2隻が琉球に現れ、通信・貿易を強硬に求めます。

弘化元年(1844)に仏軍艦アルクメール、翌年にはイギリス測量船サマラング、さらに翌年の前年にはベッテルハイムが那覇に上陸・居住、入れ違いに仏軍艦サビーヌ来航と、切迫した中での1846年でした。

琉球は薩摩藩の支配下にあり、これにより開国の歴史は始まったのだ、ということです。

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【144】アメリカ最初の公式使者、ビッドル参上≫

ペリーの前任者が開国要求

日本人漂流民を救ってくれたクーパー船長のマンハッタン号が浦賀を出た翌年、2隻の船が浦賀にやってきます。

今度は商船ではありません、軍艦です。

しかも、東インド艦隊司令長官ジェームス・ビッドル率いる艦隊でアメリカの公式使節です。

つまり、ビッドルはペリーの前任者であり、ペリーと同じく開国要求します。

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【143】孝明天皇即位≫

孝明天皇、15歳で即位

弘化3年(1846年)2月13日、孝明天皇が即位します。15歳。

この時点では帝を含め公家は、政治とは全く無縁の生活を送っています。

公家諸法度で法的にそういう立場であったことは言うまでもないでしょう。

そして、公家たちの側も政治に関わりたいとは一ミリも思っていなかったと思われます。

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【143】一番最初の開国要求≫

一番最初の開国要求はオランダ

天保15年(1844年)7月22日、オランダ国王の使者が長崎に来航、正式に日本に開国を勧めます。

これがペリーへ続く日本への開国要求の一番最初です。

オランダ国王ウィレム二世からの親書なので正式に返答する必要があります。

しかし、この時は水野忠邦の再登板時で政局が混乱していたので、返事ができませんでした。

この返答を翌年、老中首座となった阿部正弘が行います。

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【142】Wikipediaに【安政の大獄】がない≫

【批評】でなく【実績】を見る

このサイトは、【批評】でなく【実績】で判断したいと考えています。

それは、忠固自体が悪口とも言える個人攻撃の批評によって、正当な評価が得られていないからです。

考え方が違うのは、大いに結構です。

忠固と正反対の行動を取った徳川斉昭も、個人的に嫌いではないのは、斉昭も日本の将来を思っての主張・行動だったからです。

しなしながら、井伊直弼はどうでしょう。

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