開国の父 老中・松平忠固

【122】反対と妨害の中、西洋式砲術を実演≫

長崎の幕臣・高島秋帆

長崎出身の幕臣・高島秋帆は出島のオランダ人を通じて、自ら西洋式砲術を学び高島流砲術を完成させます。

そして、1841年(天保12年)5月に江戸・西郊外の徳丸が原で幕府幹部を前に公開演習を行います。

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【121】忠固の後ろ盾の一人・真田幸貫≫

真田家の幸貫が老中に

上田藩主でもある忠固が寺社奉行の時代、有力な味方と考えられる人物が老中に就任します。

真田幸貫、大河ドラマでもおなじみ真田と言えば上田、上田といえば真田、の真田家です。

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【120】忠固と阿部の指南役が堀田≫

阿部・忠固の指南役が堀田

アヘン戦争勃発の年に阿部正弘が寺社奉行に就任します。

忠固の就任から2年あと、阿部正弘21歳、忠固28歳。

寺社奉行は、【112】奏者番でも書いた通り、三奉行の内、勘定奉行と町奉行が叩き上げの官僚たちが就任するのに対し、唯一大名が就任する役職で、老中に至る出世の登竜門です。

この時の二人の指南役が、老中・堀田正睦31歳でした。

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【119】時の政権は海外情報を熟知していた≫

風説書とは

アヘン戦争勃発からわずか4日後なんですね、別段風説書が提供開始されたのは。

風説書とは、当時交易していた唯一の西洋国であるオランダが提供したレポートです。

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【118】寺社奉行は自治大臣≫

戸籍を管理する寺社を統括する寺社奉行

寺社奉行は今でいう自治大臣(現在は総務大臣ですが)である、ってご存知ですか?

今はお寺の檀家制度が廃れてしまいましたが、江戸時代は全ての家庭が檀家としてお寺に所属していました。

つまり、お寺が人々の戸籍を管理し、その寺社を統括するのが寺社奉行、という訳です。

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【117】モリソン号事件が蘭学者弾圧のきっかけに≫

アメリカ商船を砲撃して追い返す

ペリー来航から遡ること16年前。

アメリカ商船モリソン号が浦賀に来航するも砲撃し追い返す、という事件が起きました。

実は外国船が日本を訪れるのは、既に頻発していた出来事でした。

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【116】12代将軍・家慶は凡庸だったのか、否≫

12代将軍は凡庸な人!?

12代将軍・家慶にどんな印象をお持ちでしょうか。

一般的には「名前だけしか知らない」という感じではないでしょうか。

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【115】盟友・阿部正弘≫

阿部正弘が藩主に

天保7年(1836年)、阿部正弘が18歳で福山藩主となります。

この6歳年下の阿部正弘と忠固がペリー来航時の政権の中枢として活躍することになります。

ただ、「阿部と忠固が懇意で一緒になって政局に当たった」とする資料は多くありません。

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【114】きっかけは天保の大飢饉≫

6年も続く大飢饉

忠固が藩主となった3年後、天保4年(1833年)に天保の大飢饉が始まります。

天保7年の米の年末残が1,014俵、3,356俵必要なので3分の1しか収穫がない、といった状況が天保10年まで続くことになります。

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【113】最初の政敵・鳥居耀蔵≫

おなじみの悪役!?鳥居耀蔵

鳥居耀蔵といえば、時代劇『遠山の金さん』の悪役として有名かもしれません。

詳しくは、wikipedia

蘭学を取り入れる江川英龍や高島秋帆、渡辺崋山らと対立・投獄などした西洋科学を嫌悪する人物ですが、忠固の最初の政敵と言えるでしょう。

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