開国の父 老中・松平忠固

【111】忠固が西洋を知ったいきさつ≫

忠固はどうやって西洋文化を知ったのか

忠固は、幕末といっても西郷や龍馬の時代よりもずっと前、ペリー来航時には既に政府首脳だった人です。

その当時は、『外国船打ち払い令』の時代でした。

現代と違い情報源も知識を得る術もなく、例外たる蘭医を除き日本国のほとんどが『反・外国』だった状況です。

そんな状況下で、忠固はどのようにして外国を知り、西洋文明を把握したのでしょうか。

 

 

田原藩家老・渡辺崋山

「その謎が解けた」と本当に嬉しかったのが、「忠固の弟(本当は兄かもしれない)が田原藩主であった」ということが分かった時です。

田原藩といえば、家老を務めていたのが渡辺崋山。

蘭学者達と親交して優れた西洋技術を積極的に取り入れようと考え罰せられた、あの渡辺崋山です。

実の兄弟で田原藩主・三宅康直と忠固はとても仲が良かったので、渡辺崋山とも親交がありました。

崋山が処罰され蘭学者を弾圧した『蛮社の獄』を指揮した鳥居耀蔵と敵対し、崋山を擁護した忠固の行動はその表れの一つと言えましょう。

藩の財政改革の助言を受けていた若き忠固がそれと共に西洋知識を得ていた、と考えて何ら違和感はないのではないでしょうか。

 

 

 

 

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