開国の父 老中・松平忠固

【174】描かれた柿図にみる将軍・家定≫

家定は無能とされているが

ペリーが日本を離れて10日後に将軍家慶が亡くなり、その5か月後に息子・家定が将軍に就任します。

家定は病弱で暗愚、その評価は最低レベルです、忠固と同様に。。

ですが、それも政敵の立場であった松平春嶽やその家臣の中根靱負の書いた『昨夢紀事』が現在の歴史学に大きく採用されているからであって、このサイトは忠固と同様、家定が無能だとは評価していません。

むしろ幼いころから暗殺者と闘いながら、したたかな面を備えていたと考えています。

 

 

 

春嶽は将軍メーカーになりたいだけ

家慶は家定の器量を心配し、英明の誉れ高かった一橋慶喜を後継者にと考えたこともありましたが、阿部・忠固政権は通常通り、家定を将軍継嗣としました。

この時すでに春嶽は幼い慶喜を継嗣にしようと動きますが、阿部正弘にきつくたしなめられます。

阿部正弘が死後、タガが外れたように春嶽は「家定の将軍継嗣に慶喜を」と動き出しますが、春嶽は将軍メーカーになりたかっただけ、権威欲を満たしたいだけで、後に大老格である政事総裁になりますが、何の成果も挙げていない実績を思えば、生糸貿易を実現させた忠固と比して、全く相手にならないと思います。

そんな人とその家臣が書いた資料は、忠固や家定の罵詈雑言で溢れるのは無理ないことでしょう。

上記の絵画は、家定が描いたものです。

細かく、繊細な感覚と運動能力があることが伺えます。

 

 

 

 

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