開国の父 老中・松平忠固

【112】江戸幕府の出世コース≫

奏者番

忠固は藩主となった4年後の22歳の時に【奏者番】をいう役職に就きます。

奏者番とは、将軍と大名たちをつなぐ連絡係で、幕府の出世コースの第一歩です。

資格のある全国の譜代大名から20名程度が選ばれます。

外様大名やご家門・親藩は奏者番にはなれません。

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【111】忠固が西洋を知ったいきさつ≫

忠固はどうやって西洋文化を知ったのか

忠固は、幕末といっても西郷や龍馬の時代よりもずっと前、ペリー来航時には既に政府首脳だった人です。

その当時は、『外国船打ち払い令』の時代でした。

現代と違い情報源も知識を得る術もなく、例外たる蘭医を除き日本国のほとんどが『反・外国』だった状況です。

そんな状況下で、忠固はどのようにして外国を知り、西洋文明を把握したのでしょうか。

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【110】あらしの江戸城/猪坂直一≫

あらしの江戸城

 

松平忠固を主人公とする唯一の小説があります。

それが『あらしの江戸城/猪坂直一』です。

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【109】孝明天皇は和親条約了承の勅旨を出していた≫

帝は和親条約に対して了承の勅旨

日米修好通商条約が評価されない最大の理由として、『無勅許』があります。

「帝・天皇の了承を得なかった」ということです。

ですが、修好通商条約をさかのぼること3年前、日米和親条約締結時、帝は了承していたのはあまり知られていないのではないでしょうか。

安政2年(1855年)9月18日、禁裏付の都築峰重は、関白・鷹司政通に米英露三国との条約書写を交付して外国事情を陳述します。

了解した関白は天皇に奏聞、天皇は幕府の処置について満足の意を表され、12月27日幕府に対し下記の勅旨が正式に伝えられました。

 

 

 

孝明天皇の最高の評価

 

魯西亜、英吉利、亜米利加の条約を叡覧に供したるに、幕府従来の処置振殊に叡感あらせられ、宸襟を案じたまう。

老中の苦心、主職の尽力、深く宸察あらせらる。

開国への布石/土居良三

 

若き孝明天皇は「老中の苦心、主職の尽力」を最高に評価していたのです。

 

 

 

 

【108】忠固が井伊直弼を大老にした≫

4月22日、忠固が大老要請

忠固が井伊直弼を大老にした -

このことが、水戸にある常盤神社の資料に記述されています。

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【107】より有利な条件で≫

直前に結ばれた天津条約

日米修好通商条約締結直前に結ばれた条約があります。

それが天津条約です。

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【106】修好条約と天津条約の税率≫

不平等条約である天津条約との比較

1858年、日米修好通商条約締結のわずか1カ月前に結ばれた天津条約。

この天津条約はアロー戦争(第二次アヘン戦争)によって欧米列強と清国が結んだ条約で、半植民地的内容です。

この条約の関税は5%、対する修好条約は20%(一般品)。

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【105】養父・忠学の人物像≫

忠固の養父・松平忠学

 

忠固は18歳で上田藩第四代藩主:松平忠学の養子となり、上田に初入部します。

忠固の養父・忠学とはどのような人物なのでしょう。

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【104】江戸生まれ・江戸育ち≫

江戸生まれ

忠固は江戸生まれです。

実は当時の藩主の世継ぎは、その多くが江戸生まれです。

生まれも育ちも江戸で、家督を相続するまで地元に行ったこともない、という人も少なくありません。

忠固だけでなく、阿部正弘や島津斉彬もそうですね。

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【103】出身は譜代筆頭・酒井家≫

酒井家の次男

忠固は、文化9年(1812年)姫路藩第四代・酒井忠実の次男として生まれます。

この「次男」であることがその後の人生を大きく左右したと思えます。

なぜなら、当時の武家社会は家を相続できるのは基本、長男のみが許されていたからです。

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