開国の父 老中・松平忠固

松平忠固(忠優)

【110】あらしの江戸城/猪坂直一≫

あらしの江戸城

 

松平忠固を主人公とする唯一の小説があります。

それが『あらしの江戸城/猪坂直一』です。

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【111】忠固が西洋を知ったいきさつ≫

忠固はどうやって西洋文化を知ったのか

忠固は、幕末といっても西郷や龍馬の時代よりもずっと前、ペリー来航時には既に政府首脳だった人です。

その当時は、『外国船打ち払い令』の時代でした。

現代と違い情報源も知識を得る術もなく、例外たる蘭医を除き日本国のほとんどが『反・外国』だった状況です。

そんな状況下で、忠固はどのようにして外国を知り、西洋文明を把握したのでしょうか。

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【114】きっかけは天保の大飢饉≫

6年も続く大飢饉

忠固が藩主となった3年後、天保4年(1833年)に天保の大飢饉が始まります。

天保7年の米の年末残が1,014俵、3,356俵必要なので3分の1しか収穫がない、といった状況が天保10年まで続くことになります。

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【131】忠固(忠優)、失脚≫

エース候補だった忠固が失脚

忠固(当時の名は忠優)は政争に敗れ、寺社奉行を罷免されます。

本来、忠固は幕府政権のエース候補だったのではないでしょうか。

なぜなら、忠固は譜代筆頭・播磨姫路藩主・酒井雅楽頭家出身です。

しかし逆に、酒井家のままでは政権内閣である老中には基本なれません。

酒井家がなるのは大老であり、基本大老は名誉職、実務を行うのは大臣である老中であり首相は老中首座なのです。

大老家出身で老中の手前まで出世してきた忠固、老中首座として長期政権を担える存在だったことが伺えます。

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【136】誰が忠固を復活させたのか?≫

忠固を寺社奉行再任に導いたのは誰か?

忠固の寺社奉行罷免から1年余りで、老中首座・水野忠邦が失脚・復権・再失脚という政変があった訳ですが、水野が再失脚する2カ月前に、忠固が寺社奉行に再任されます。

致命的な罷免、政治生命を絶たれたと思われた忠固を、いったい誰が復活させたのでしょう?

水野忠邦の置き土産?、そんなことはないでしょう。

それは、水野忠邦が辞職した同日に老中首座となった阿部正弘、その人だとしか考えられません。

その後の二人の歩みから見て、それは間違いないと思います。

 

 

 

盟友の証拠

松平忠固と阿部正弘、この二人の関係はこれまで確固たる資料がなく、年表の流れから推察するしかありませんでした。

しかし、二人が盟友であった証拠がやっと見つかりました!

儒学者の尾藤水竹が水戸藩士に出した書状です。

「閣老後任いよいよ大坂(忠固。大坂城代)に定まり召状を発せられたり。この人は勢州(阿部正弘。伊勢守)無二の懇意にもあり、すごぶる長者の聞えあり」

忠固が大坂城代から老中になる時の書状ですが、「二人が無二の懇意である」証拠がやっと一つありました。

それに、「すごぶる長者」という言葉も気になります。まさか「穏やかという意味???」

忠固の画と唄「時わかぬみどりの松にいろはえてゆかりに寄する春の藤浪」

 

 

 

 

【139】忠固、老中に向かって大坂城代へ出世≫

忠固、大坂城代となる

忠固は寺社奉行復帰から2か月余りで大坂城代へ出世します。

大坂城代は出世レースの頂点・老中の最終段階。

老中首座の阿部正弘は、明らかに忠固を自分の内閣に迎えるために、寺社奉行に復帰させ続けざまに大坂城代に出世させたと思われます。

自らは特例的な形でいきなり老中になってしまったので、忠固には大坂城代を経てという通例に則って、政敵の批判を防ぐという面もあったと思います。

忠固の大坂入城行列図

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【141】【一橋派 vs 南紀派】ではなく【政権 vs 政権交代派】≫

一橋派 vs 南紀派 という構図ではない

日米両条約締結の時期の政治体制は、今でも下記のように語られます。

一橋派 vs 南紀派

〇一橋派

阿部正弘、水戸徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬、尾張徳川家、宇和島・土佐藩主など

〇南紀派

井伊直弼、松平忠固、紀州徳川家家老、溜間大名、譜代大名

しかし、このサイトは条約締結時にはそのような構図はなかったと考えています。

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【141】大坂での成功≫

城代縞

大坂城代となった忠固は、入城してすぐに30年来の懸案事項だった大坂城改築に取り掛かります。

そして、その後行ったのが、難波橋の橋詰に開設した上田織物扱所の設置です。

全国一の蚕都と名高い地元上田の絹織物・上田紬を、当時経済の中心地である天下の台所・大坂で販売する販売所を設けたのです。

この織物は『御城代縞(大坂城代のしま模様の織物)』と呼ばれ評判となりました。

 

 

 

ただ一人、輸出を想定していた忠固

忠固が若い時から養蚕を奨励してたことは【114】で書いた通りです。

天保の大飢饉で疲弊を極めた地元産業・経済の起爆剤として、自らの中央政府での地位を以て養蚕振興の許認可を受けていた訳ですが、それが大坂でいよいよ実を結ぶのです。

その成功によりやがて江戸でも販売所が開設され、いえ、どちらかというと江戸での販売所は横浜での輸出を視野に入れての前段階としての申請だと思われます。

忠固の生糸輸出のイメージは既に大坂時代には出来上がっていたとも思われ、それはほとんどの大名が攘夷もしくは開国反対で、開国の意志を持っていた極々わずかな一人である阿部正弘さえ具体的な輸出のことまで考えていなかったことを見ると、いかに革新的で、あまりに革新的すぎるゆえ誰からも理解されず、後世の歴史家からも罵詈雑言を浴びせかけられる、という事態になっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

【147】忠固(忠優)、ついに老中に≫

忠固、遂に老中に

弘化から嘉永元年(1848)となり、忠固(忠優)がついに老中となります。

その時の閣僚・老中の布陣は以下の通り。

阿部正弘 29(1843 – 1857)
牧野忠雅 49(1843 – 1857)阿部と親戚、阿部の守役的存在。
戸田忠温 44(1845 – 1851)阿部と親戚(阿部の妹が妻)51年に死去、後に久世
松平乗全 53(1845 – 1855、1858 – 1860)阿部と親戚(父の妻が正弘の叔母)、忠優の守役的存在。
松平忠優 36(1848 – 1855、1857 – 1858)

忠固以外は阿部の親戚、完全なる阿部正弘内閣の誕生です。

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